安藤優子 キャスターの裏側で母親の介護と向き合った16年間を明かす「介護はもっと人に頼って良い」
2024.1.10 09:45日本を代表するキャスターでジャーナリストでもある安藤優子が12月20日(水)放送の日本テレビ系情報番組『DayDay.』(月~金/あさ9時~)に出演。キャスターを続けながら、母親の介護に向き合った16年間を語った。
安藤がスタジオに登場すると、MCの武田真一は先日共演したというクイズ番組を振り返り、安藤は「武田さんのおかげでお肉をゲットできた!」と冒頭から笑いを交えてあいさつ。MCの南海キャンディーズ・山里亮太は2人の対面について「武田さんと安藤さんがそろうとニュース番組って感じがする」とコメント。武田は安藤を「大先輩」と表現すると、安藤は「ひどいですね(笑)。ちょっと先輩です」と笑顔ながらも“訂正”したところでコーナーがスタート。
■ホテルウーマンを目指した大学時代
40年もの長きにわたり、報道の第一線で活躍してきた安藤。そのルーツをひもとくため、まずは彼女の大学時代までさかのぼる。スタジオでは当時の写真が公開されると、安藤は「かわいい(笑)」と自画自賛しつつ「山を登っているところ。水筒を持ってリュック背負っています。御嶽山だったかな」と説明。当時ホテルウーマンを目指していたことについて聞かれると、「学校がホテルのすぐ隣にあったので、いつもホテルのロビーを通り抜けて登校していた」と思い出を語り、「ホテルには世界中の人が集っているので、ここが世界を動かしている人たちの集まりなんだと思って、働いてみたいと思った」と回顧。これに山里は「景色を見るだけで、そう感じられるのがすごい」、また武田は「(ホテルのロビーは)夏は涼しくて良いなとしか思えない」と安藤の感性を感心していた。
■報道の世界への入り口は渋谷PARCOのエレベーター?
アメリカの高校を卒業して日本の大学に入った安藤は「ホテルウーマンの夢をかなえるため、アメリカの大学のホテル学科に行きたかった。だけど親は大反対したので、自分でお金を貯めるしかなくて、ありとあらゆるアルバイトをした」と話し、そのうちのひとつが渋谷PARCOでのエレベーターガールだったという。安藤は「昼休みに必ず(エレベーターに)乗ってくる男性に“君、テレビ出てみない?”と言われて」とスカウトされ、アメリカを旅する番組に出演したことを明かした。
それがきっかけとなり、1987年に『FNNスーパータイム』のメインキャスターに就任。以降、ニュース番組に33年間も従事したと知った山里は、安藤に生放送の秘けつを尋ねると「私は忘却力に優れているんですよ。あまり昨日のことは引きずらない。じゃないと生放送は怖くてできない!仕事でやっちゃった失敗は仕事で返す」と説得力のあるコメント。同じく長年ニュースキャスター務めていた武田は「毎日プレッシャーがある」と共感しつつ「心は擦り切れなかったですか?」と質問すると、安藤は「毎日辞めたいと思ってました。今日本当によくできたねという日は、200回やっても1回あるかないか」とストイックな一面を見せた一方で、山里は「俺は結構(自分を)ほめちゃってる」と笑いを誘った。
■認知症介護の日々のはじまり
そんな安藤に人生の転機が訪れる。多忙な日々の裏側で、実は16年間にわたる母親の認知症介護の日々を送っていた。安藤は、母・みどりさんについて「とにかく新しいものが好きで、すごく社交的で明るくて。ヨガや水泳をやったり、旅行が大好きで外国へもどんどん行っちゃう」と好奇心旺盛な人だったと語った。
そして、みどりさんの異変に気づいたとき「(好奇心旺盛なのに)外へ行きたくない、ヨガもやらない、好きな料理もしたくないなどとすべてにおっくうになった。ある日、父から連絡があって、母が突然“ベランダから飛び降りてやる”って言ったというのを聞いて。いま考えると、高齢者にある老人性うつを発症していました」と振り返った。
続けて、変貌ぶりが著しかったというみどりさんの症状について「30秒に1度くらい呼ばれたり、同じことを何度も言ったり」と苦しい日々を打ち明けた。安藤は、異変に気づいていながらも「目を背けていたところはあった。あの明るくて楽しい母が、そうなってしまったことを受け入れられなくて。認知症だと受け入れて、もっと早く行動を起こせばよかったと悔やんでいます」と心境を語った。
■父親の死、そして介護施設に入所へ
さらに、介護を続ける安藤に追い打ちをかけるように、父親の心臓病とすい臓がんが判明。安藤は「心臓病のカテーテル手術をして、それは成功した。100歳まで生きられると言われたが、念のため精密検査をしたら、すい臓がんがわかり、それから半年後に亡くなった」と振り返った。
父親が入退院を繰り返しているあいだ、家にひとりぼっちだったというみどりさんについて「父がいないと、飼っていた犬の散歩に行けず、犬は歩行困難になるなど色んなことが起きた。母1人で暮らすのは無理だと思い、ヘルパーさんを雇って、ケアマネジャーとも相談したけど、(母は)台所に他人が立つのをものすごい拒絶した」といきさつを説明。そして「母の生活を助けようとしてくれる人たちが、母の敵になってしまう。生活の中にずかずか入り込んでくる他人だと言って、私たちの知らないあいだに、どんどんヘルパーさんを辞めさせていました」と話し、介護施設に入れる決断をしたと明かした。
■介護はもっと人に頼って良い
しかし、みどりさんは「ちゃんとした自分の家があるのに、なぜそんなところに行かなくちゃいけないのか」と聞く耳を持ってくれず、安藤は「水道工事をするから住めなくなる」と心苦しくもうそをつき、なんとか施設に入ってもらうことに。しかし、「こんなところに連れてきて、育てた恩をあだで返した」などと罵倒されたこともあると、辛い過去を告白。
この経験から、安藤は「介護はもっと人に頼って良い」と話し、「母は施設に入所してから、きちんとした食事と投薬によって健康を取り戻した。家族だと煮詰まるんですよ。愛情という感情が煮詰まると、怒りになってしまう。第3者があいだに入って、きちんと母のお世話をしてくれたことによって、母は最後おだやかに逝くことができた」と感慨深く語った。
■母の症状に変化が…芸術療法とは
介護施設では、臨床美術セミナーと呼ばれる、絵画やオブジェを制作することで脳の活性化を目指す芸術療法があり、みどりさんはそこで絵を描くことを楽しみにしていたという。安藤はそのときの様子をこう振り返った。
「臨床美術士さんがアンスリウムの花を持っていて、母の部屋の窓を開けて風を入れて、ハワイの音楽をかけて、母の中にあるハワイの思い出を聞き出すんです。そして最後の10分間で、アンスリウムを見ながら描いた絵です。だから、これはアンスリウムそのものではなく、母にとってのハワイが詰まっている」
さらに、この絵を描き上げたとき、みどりさんが「よくできた」と初めて自己肯定したことを臨床美術士から涙ながらに報告を受けたという。それを聞いた安藤は「それまでは攻撃的な言動があったけど、それは自分が今までできていたことが全部できなくなったことに対する怒りだった。それが、この絵を描いたことによって自己肯定できた。ドラマみたいだけど、そこからすごくおだやかになり、亡くなる3日前くらいまでずっと描いていた」と母親の変化に感動したことを明かした。
■ジーンズ姿を初披露
そんな母・みどりさんの影響を受けてファッションや料理が大好きという安藤。武田からこの日の衣装について聞かれると、「今日はジーンズをはいてきたんですけど、テレビでジーンズ姿は初めて。いつもの安藤で参りました」と笑顔でコメント。また日頃の衣装も「スタイリストさんはいるけど、私がこれとこれとこれって選んで着ています」と語った。
最後に自身のスタイルブック『アンドーの今もずっと好きなもの。』についても触れ、「このあと実はサイン会があり、みなさんに来ていただきたいです」とメッセージを送り、コーナーを締めくくった。
写真提供:©entax
【出版情報】
『アンドーの今もずっと好きなもの。』(宝島社)発売中